2009年12月17日

古文書

古文書 (こもんじょ)とは、歴史学上、特定の対象へ意思を伝達するために作成された伝達手段のことである。簡単に言うと、誰か特定の他者に意思を伝えるために作成された物体のことである。
従って上記の定義に従えば、編纂物である歴史書の類や個人の記録である日記、備忘録、本などの著作物は古文書とは言わない。しかし、これらの物も「古記録」と呼ばれ、重要な史料であることに間違いはない。また、逆に、電子メール、個人宛のビデオレターなども歴史学上の史料としては古文書に含まれる。日本史の分野で多く用いられる用語であり、日本以外をフィールドとする場合、古記録とまとめて文書史料、略して文書(もんじょ)と呼ぶことが多い。

今日伝世する古文書の多くは権利関係の文書である。これは当時、権利関係の文書ばかりが発給されていたということではなく、そのような文書だけが大事に保管され、他の文書は廃棄されたためである。今日でも証書など大事な書類は引き出しや金庫に保管するが、さほど重要性を持たない文書は役割を終えると廃棄されるのと同じである。

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古文書には当時の原本(「正文」しょうもん)が宛所の家にそのまま伝わる場合と、下書き(「草案」そうあん/「土代」どだい)が差出人の家に控えとして伝世する場合がある。また、朝廷や幕府が同じ命令を各地に出すときや、分家するときに先祖が発給を受けた文書を分家に写しとして分与したり、訴訟で証拠書類を提出するとき、正文をもとに写しを作成する。これら写しは「案文(あんぶん)」と呼ばれている。

また偶然、機能を終えた文書の裏面を利用して写本を行ったり、裏面に草案をしたためたりして廃棄されずに、別な形で伝世する場合がある。このような文書を「紙背文書」と呼ぶ。

2009年12月01日

御節料理

御節料理(おせちりょうり)は、節日(節句)に作られる料理。特に、正月に備えて年明けまでに用意されるお祝いの料理(献立)を指す。単におせちともいう。正月料理。
現代では保存がきく作り置きの正月の料理となっている。これは、「神様をお迎えした新年に台所を騒がせてはならない」、という考えによるものである。転じて、煮しめた保存食により女性が正月三が日に休めるように、とも言われる。外食の増えた近年では、手作り料理の代名詞と見られることがある一方、デパートや料亭などのおせち料理が購入されるケースも増えている。本来は「年迎え」の膳として、大晦日に食べるものであったが、現在ではほとんどの地方で元日以降に食べるのが普通である。ただし、北海道など一部の地方には、かつての名残りで大晦日に食べる風習が残っている。

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正月元日(1月1日)も、昔から、山に帰った田の神を呼び戻すために祝われる重要な節日とされていたがある時、凶作によって食料が枯渇し、正月に炊飯する為の竈から煙が上がらないのを高殿に昇った仁徳天皇が見つけて心を痛め、「正月に民達の竈から煙の上らない年は免税とする」と言った事から、税逃がれ目的で毎年の正月は竈を休ませる日となった。その後も免税措置は撤回せず、仁徳天皇の御殿は雨漏りがするほど酷い状況であったという。

現在では、一般に祝う風習のある節日は正月のみとなった。このため、御節料理とは、前年の大晦日までに作られる、翌年の正月のための料理(正月料理)のみを指すようになった。
「御節」とは、中国大陸から伝わった暦上の節目、季節の変わり目などにあたる節日(せちにち、節句)のことを指す。節日には祝事を行い、祝い膳がしつらえられた。このとき作られるめでたい料理が、「御節料理」と呼ばれた。

2009年11月27日

マルクス/エンゲルスの思想における

マルクス/エンゲルスの思想における物象化論を中心に、マッハ、フッサール、ハイデッガー等と対質しながら、特異な擬古文調・擬漢文調の文体を用いて、主観-客観の二項対立図式を止揚すべく独自の哲学を展開した。

マルクス、エンゲルスが草稿として残し、後の時代に編集されて出版された『ドイツ・イデオロギー』に関しては、1932年にマルクス・エンゲルス・レーニン研究所がV・アドラツキー編集で刊行した『マルクス・エンゲルス全集』(Marx/Engels historisch-krirische Gesamtausgabe いわゆる旧MEGA)第1部5巻に収録されたアドラツキー版が長らく決定版と見なされていたが、廣松渉はこの版の問題点を指摘。事実上の改竄に当たることを証明した功績は大きい。その後、独自に編集した『新編輯版ドイツ・イデオロギー』やその他の研究著書を発表し、現代でも高く評価されている。また、『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスの思想がそれ以前の『経済学・哲学草稿』の疎外論から、後期の物象化論へ思想的転換が起こっているを指摘。当時マルクス、エンゲルスの思想を疎外論を中心軸として解釈する立場を取る者が多かったため、後期物象化論を軸にしてマルクスを読み解こうとする廣松の見解は大きな反響を呼んだ。1960年代から1970年代にかけて出版された『マルクス主義の成立過程』『マルクス主義の地平』『マルクス主義の理路』はマルクス主義三部作と呼ばれる。
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マルクス、エンゲルスの研究の一方で、主観・客観図式による伝統的な認識論を批判。主観・客観とされているいずれの側も二重になっており、全体として世界の存在構造は「四肢的」だと指摘した。また、実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があってこそ実体があると考える事的世界観を提起した。1970年代以降は独自の哲学体系を構築することに力を注ぎ、1982年に主著となる『存在と意味』第一巻を発表。これは全三巻の予定だったが、1993年に第二巻を出したところで病に倒れることになった。

2009年11月13日

院内会派

貴族院は衆議院における政党政治の防波堤となり、国権主義の保持に寄与するという建前上、院内に政党を置くことはなく、政党に参加した議員は不文律として貴族院議員を辞職することになっていた。したがって、公式には貴族院議員はほとんどが無所属である(政党の党籍を持ったまま、貴族院では無所属として活動した例はある)。ただし、議会活動の上での親睦や情報交換を目的とする院内会派は設置された。

大正末年から昭和初期にかけての政党政治の成熟期には、これらの会派の一部が衆議院における政党と結び、政党色を強めることもあった。もっとも、貴族院議員の性質上、再選を目指す必要がない議員も多く、大半の場合、院内会派の拘束力は弱かった。具体的には、大半の会派において、不偏不党と「一人一党」主義を謳い、党議拘束を行わなかった。そのため、衆議院における政党とは明らかな差異が認められる。

主な院内会派は次のとおり。

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公爵および侯爵議員による会派。少数派ではあったが、終身議員のみで構成されており、強い影響力を持っていた。徳川家達(第4代議長)、近衛文麿(第5代議長)、徳川圀順(第7代議長)、徳川家正(第8代議長)などが所属。
研究会
1890年(明治23年)に子爵議員の互選団体である尚友会を中心に結成され、伯爵・子爵議員を多く擁し、長らく貴族院院内会派としては最大勢力を誇った[8]。後には官僚出身の勅選議員も多く所属することとなる。松平頼寿(第6代議長)などが所属する。

2009年11月02日

人毛醤油

人毛醤油(じんもうじょうゆ)とは、中華人民共和国で2004年に報道された粗悪食品の一つで、頭髪などの人毛を原料として製造した醤油である。
頭髪は、中国東北部や華北などにおいて、1キログラムあたり1元(人民元)の対価で理髪店から収集し、簡単な選別作業ののち、再び1キログラムあたり1.8ドル程度で山東省や河北省などの化学工場に転売される。工場で塩酸の水和他の化学的な提練を経てアミノ酸溶液にする。この溶液が中国各地の中小の工場に再び転売されて醤油の材料となった。醤油には中国政府によってアミノ酸含有量に規制があるが、人毛醤油はコストダウンのために大豆などの一般的な醤油原料の使用を減らし、頭髪に由来するアミノ酸で補ったものである。
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記者たちの間で頭髪を原料にした醤油のことが話題になっていたところから取材が始まった。頭髪からアミノ酸を抽出して作られた醤油は、秘密裏に日本などの外国へ輸出されるという。2004年1月、中国のテレビで不潔な人毛を含む醤油のことを暴露する番組「毛髪水醤油」が放送された。どのようにしてアミノ酸の液体または粉末を精製するのか訊ねると、製造者は人毛からだと答えた。人毛は国内の美容院や理容店、病院から集められた。収集した頭髪には、ゴミ(使用済みのコンドームや、使い古した病院綿、使用済みの生理用品、使い古した注射器など)が混入しているという。その後、中国政府は人毛を使って醤油を作ることを禁止した。

2009年10月23日

鉄道の歴史

鉄道の歴史(てつどうのれきし)では、鉄道の創始以来の主要な歴史について述べる。

ここでは、主要な項目を列挙し、詳細は別にゆずる。

馬車道上の切石を用いた軌道を牽引される最初の車両は、少なくとも2000年前にギリシャ、マルタとローマ帝国の一部に登場した。
16世紀半ば 木製のレールが使用されはじめる。
イギリスの炭鉱で車の轍(わだち)のあとに丸太を設置して、その上に車を走らせた。カリーの健康状態
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また、ドイツの鉱山でも木製レールが使用され、ポイント(分岐)も備えていた。
18世紀後半 産業革命で蒸気機関の動力が発明される。
18世紀後半 鉄製レールが使用されはじめる。
鉱山などで鉄製のレールを使った運搬が行われた。馬や人の力で運搬する。
19世紀初頭 蒸気機関を用いた鉄道の研究・開発がはじまる。
トレビシックが1804年に鉄製レール上を走る蒸気機関車の走行に成功したが、この頃は馬車鉄道用のもろい鋳鉄レールを使用していたため線路が折れやすく、本格的な実用化までには至らなかった。その後、ナポレオン戦争による軍馬の需要の増加で馬の価格が高騰し、運搬の代替手段としてレールと蒸気機関車を用いた鉄道の研究が一段と進んだ。

2009年06月22日

生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に

植物において、生命維持の基本単位であるゲノムが一つの細胞に3組以上存在するという、多倍数性がみられることがある。木原によるゲノム説の元となったパンコムギにおいては、3種のゲノムが2組ずつ合わさった6倍体であることが示された。このようにゲノム構成を明らかにすることをゲノム分析と呼ぶ[1]。

半数体ヒトゲノムは約30億塩基対からなり、体細胞は2倍体であるため約60億塩基対のDNAを核内に持っている。分裂酵母では3本の染色体DNA上に、大腸菌やミトコンドリアでは一つの環状DNA上に保持されている。ヒト免疫不全ウイルス(HIV)のようなレトロウイルスではRNAが媒体になる。

遺伝子数とゲノムサイズは必ずしも比例しない。両生類や植物のユリのゲノムサイズは大きく、昆虫やトラフグではゲノムサイズが小さい。これはイントロンや遺伝子間のジャンクDNAの長さが原因である。進化の過程でゲノムサイズは増加していくが、あるときゲノムをコンパクトにすることが起こるためであると考えられている。

近年、ゲノムの全塩基配列を解読することを目標としたゲノムプロジェクトがさまざまな種を対象に実施されている(完了したのはゲノム配列決定であり、内容の解読は完了していないので、「ゲノムプロジェクト」ではなく、ゲノムシーケンシングプロジェクト、あるいはゲノム配列決定プロジェクトともいう)。全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものである。しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。
感染症
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そこで、現在ではゲノムを研究するゲノミクス(ジェノミクスともいう)を初めとして、オーミクス(-omics = -ome + -ics)と呼ばれる、網羅的解析を特徴とする研究分野が盛んになってきている。ゲノムDNAからの転写産物(トランスクリプト; Transcript)の総和としてトランスクリプトーム(Transcriptome)、存在するタンパク質(プロテイン; Protein)の総体としてプロテオーム(Proteome)がある。また代謝産物(Metabolite)の総和としてメタボローム(Metabolome)という概念もある。特にプロテオームを扱う分野をプロテオミクスという。これらのゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼ぶことがある。プロテオミクスはポストゲノム研究として最も注目されている分野のひとつであったが、実際的な成果がなかなか出なかったことから、海外の製薬企業などはプロテオミクスから撤退しているところも多い。

オーミクスでは、データを効率良く網羅的に収集し、コンピュータによって解析することが必須となる。これに対応するバイオインフォマティックスという分野の研究も盛んである。

また、ゲノム研究は SNPs解析などを通じて医療分野への応用も期待されている。

慶應義塾大学板谷光泰教授らは、枯草菌のゲノムを応用し、複合ゲノム「キメラゲノム」を作成した

2009年06月04日

立法(りっぽう)とは、形式的意義においては

立法(りっぽう)とは、形式的意義においては議会の議決を経て成立する法律を制定することをいうが、実質的意義においては法規を定立する国家作用(立法権)のことをいい、行政・司法と並ぶ国家作用の一つである。

立法の対象となる法規の捉え方については、その概念が議会制度の発達により変化したこともあり、一義的に決まるものではないが、概ね以下のように考えられている。

国民の権利を直接に制限し、義務を課する法規範
およそ一般的・抽象的な法規範
前者の考え方は、議会の勢力が弱かったころの主に立憲君主制の体制下で採用された見解であり、一般的な法規範のうち、国民の自由と財産に関して定める権限を君主から奪い議会に留保するという考え方によるものである。大日本帝国憲法下における通説的な見解でもある。この考え方によると、国家組織を定める一般的な法規範などは立法の範疇に入らない。

後者の考え方は、議会制民主主義の発展に伴い、前者の考え方では議会の守備範囲が狭すぎるという問題意識から採用されるに至った見解であり、「一般的・抽象的」というのは、不特定多数の人・場合・事件に適用されるという意味である。日本国憲法下で通説化した。
ギフト 教材 産業 育毛 信越北陸 サプリ クレジット レストラン 探偵 タロット アレルギー 自動車 マッサージ 古着 学校 ホテル 検定 水族館 美容室 人探し 矯正 調査 ブログ マッサージ 引越し 審美歯科 アクセサリー 予備校 贈り物 スクール 公園 ダイエット 学習 予約 美容 老人 美容室 アルバイト 乗り物 マッサージ 精神医学 審美歯科 通信販売 教育 近畿東海 ステイ 旅行 エステ 法人設立 しわ取り

近代以後は、実質的意義における立法について議会の関与を必要とするのが一般的である。

日本においても、日本国憲法下では、国会は唯一の立法機関であるとされている(同憲法41条)。もっとも、議院規則や最高裁判所規則などの例外が認められている。

国会中心立法の原則
国会単独立法の原則

2009年05月01日

貨幣経済

治療・生活習慣病関連医学専門総合
彼岸花お買物上手!サーチ
グラハムトーマス学習システムガイド
交通・動物園関連トラベル総合
スコーピオンテラ美的生活全国情報ガイド
調査・内職関連ビジネスコーチナビ
デザインライフスタイルストア-情報
リラクゼーション関連女性の健康紹介
チェルシ買い物生活サーチ
ヴァルハラまなび教育サーチ

貨幣経済 (かへいけいざい) とは、貨幣によって商品の交換を媒介している経済の一形態。

現在、世界経済のほとんどが大なり小なりこの貨幣経済により成り立っており、経済学による主要な分析対象である。

貨幣経済は、貨幣によって交換を媒介するために、まず貨幣となるような普遍的な商品が必要である。いったん取引が行われると、その性質上、あらゆるものを商品化し自己拡張する。

貨幣経済は、交換や蓄積が効率的なため、経済的繁栄の必要条件となる。特に紙幣が効率性が高い。

不換紙幣を貨幣とする場合は、貨幣の信用が重要となるため、安定した政府などが必要である。

一般に、政府が信用されない場合、紙幣の流通がうまくいかなくなり貨幣経済は衰退する。また、自国の通貨よりも外貨がもてはやされる事態も発生する。

そのため、内戦が頻発する国や、著しく財政規律が乱れた国は、貨幣経済の維持・運用が困難となり、インフレーションの誘発や経済活動が縮小をもたらし、貧困が多発する。

2009年04月17日

コーカンド・ハン国

コーカンド・ハン国(ウズベク語 : Qo'qon xonligi)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。

ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である。

コーカンド・ハン国の成立 [編集]
16世紀以来、フェルガナ地方には中央アジアに進出したウズベク系諸部族が流入し、ウズベク系のブハラ・ハン国がその支配者として君臨していた。しかし17世紀末頃にはブハラ・ハン国は本拠地であるマーワラーアンナフルの一部しか支配しえないほどに弱体化し、フェルガナ地方ではイスラム神秘主義教団であるナクシュバンディー教団出身のホージャ(指導者)たちが都市の自治を担うようになっていた。しかし18世紀前半にはフェルガナ地方に土着したウズベク諸部族のひとつ、ミング部族のビー(ベグのウズベク語形、部族の首領のこと)が力を付け、ホージャ権力を打倒してフェルガナ地方に自立政権を樹立していった。彼らは1740年には都をコーカンドに定めているが、コーカンド・ハン国の建国はこの頃とみなされることが普通である。

ハン国の勢力は当初きわめて弱体であり、天山山脈北麓に割拠するオイラトのジュンガル帝国による侵攻をたびたび受けて大いに脅かされた。さらに18世紀半ばに清がジュンガルを討ってジュンガルの支配する東トルキスタンを併合すると、コーカンド領に隣接するタリム盆地東縁のカシュガル地方において強大な清の勢力と直接接触することになり、また清の支配を逃れてオイラトの貴族や、タリム盆地各地を支配してきたホージャたちがフェルガナに流入してきたために、清との潜在的な敵対関係に入らざるを得なくなった。

コーカンドの君主エルデニは清の脅威に対して南のドゥッラーニー朝(アフガニスタン)に援助を求めたが果たせなかったので、清に朝貢使節を送って誼を通じた。清との朝貢関係樹立はその代償に清朝支配下の新疆(東トルキスタン)との通商権をコーカンドに与え、その経済的繁栄をもたらすことになる。

またコーカンドにかかる直接の軍事的圧力が薄れたことは、コーカンド政権の支配拡大を可能とした。コーカンドの君主たちはかつてジュンガルでも軍の主力として活躍してきたキルギス人の傭兵や砲兵を受け入れて軍事力を増強し、18世紀末のナルブタ・ビーの頃までにフェルガナ地方の統一に成功した。

ハン国の拡大と最盛期 [編集]
1800年、コーカンドの君主アーリムは中央アジア有数の大都市で、当時中央アジアに進出しつつあったロシアと東方とを繋ぐ中継基地として経済的に繁栄しつつあったタシュケントを征服、フェルガナを越えてカザフ草原にまで進出した。この成功によりアーリムは支配下の諸部族によってハンに推戴され、長らく中央ユーラシア世界においてハンの称号を名乗るのに必須の条件とみなされていたチンギス・ハーンの血を引かないままハンの座についた。この政権が「ハン国」と称されるのは、これ以来君主がハンを称したことに由来する。

1810年に即位したアーリムの弟ウマル・ハンのとき、コーカンド・ハン国は最盛期を迎えた。軍事的にはカザフ居住地域の主要都市トルキスタン市を征服して周辺のカザフ人やキルギス人に宗主権を認めさせ、その勢力圏は北はバルハシ湖、西はシル川流域に及んだ。

通商面では清朝への朝貢関係に加えてロシアとの間でも通商関係を結び、東西交易の通商路を拡大してハン国に大きな経済的利益をもたらした。特に清とは緊密な関係を結び、コーカンド商人は新疆における東西交易に独占的な地位を得た。コーカンドは中央アジア最大の交易国となり、金銀装飾品や武器、日用品を中央アジアの遊牧民たちに供給し、茶、絹、陶磁器などの中国製品をブハラなど西方に中継した。ハン国の経済的成長にともなってその中心地方であるフェルガナはそれまで長らく続いた辺境の地位を脱し、軍事・宗教・商業施設や水路などの社会資本の整備が進み繁栄を極めた。

清との角逐 [編集]
新疆の保持のために多大な負担を余儀なくされていた清は、19世紀初頭に入るとコーカンドの進出と強大化を警戒し、新疆におけるコーカンド商人の活動を規制しようとした。最盛期を迎えたコーカンド・ハン国は、清のコーカンド商人敵視に対する反発もあって清の支配するカシュガルへの野心をふたたびあらわにし、清の征服以前にカシュガルを支配していたホージャ一族の末裔を利用してこの地方に干渉しようとした。

1826年、ウマル・ハンの子ムハンマド・アリーは、カシュガル・ホージャ家のブルハーヌディーンの孫ジハーンギールを支援してカシュガル、ヤルカンドに直接出兵した。ジハーンギールの侵入は清にとって数十年ぶりの大規模な新疆における反乱に発展し、清はコーカンドと断交してなんとかこれを撃退した。しかしこの反乱は清に大きな衝撃を与え、コーカンドとの関係を妥協せざるを得なくなった。1830年、清はコーカンド・ハン国と講和を結び、コーカンド・ハン国がアクサカル(長老)と呼ばれる一種の領事を新疆各地のオアシス都市に派遣する特権を認めた。アクサカルは新疆でのコーカンド商人を保護するだけでなく新疆に居住するコーカンド商人からの徴税までをも行い、新疆における東西交易の利潤をコーカンド・ハン国に独占させることを可能にした。

ジハーンギールの侵入の失敗後も、コーカンド・ハン国のカシュガルに対する潜在的な野心は衰えておらず、たびたびホージャ一族の復権運動を支援して新疆への介入を続けた。

衰退期 [編集]
ハン国は繁栄の一方で、国内政治では支配層内部における対立やカザフ、キルギスの遊牧民たちの反乱は絶えず、政権は常に不安定であった。そして1842年、ブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国の後身)のナスルッラー率いるの攻撃を受けてムハンマド・アリー・ハンとその家族がことごとく殺害されるに至り、コーカンド・ハン国はブハラの支配下に入った。首都コーカンドはブハラの軍によって占領され、コーカンドのハンにはブハラの擁立した傀儡が立てられた。

結局ブハラの支配はコーカンド・ハの一族の間から出たシェールアリー・ハンによって覆され短期間に終わったが、以後のハン国ではハン位をめぐる争いが激化して国内政治はますます混乱し、またカザフやキルギスをはじめとする遊牧民たちが勢力を増してハン国の権威を脅かした。さらに北方ではロシアがカザフ草原に進出して勢力を南進させ、ウズベク3ハン国のうちもっとも北方に位置するコーカンド・ハン国に対する軍事的圧力を強めた。コーカンド・ハン国は当時の世界で最大最強のイスラム教国であったオスマン帝国や、さらにはインドから北進して中央アジアをうかがっていたイギリスと友好関係を結んでロシアに対抗しようとしたが、弱体化したコーカンド・ハン国はもはやロシアの南下の圧力に抗する力を持たなかった。

また同じ19世紀半ばには隣接する東トルキスタンでは清の支配が弛緩し反乱が続発、コーカンド・ハン国の繁栄を支えた中継貿易が衰えを見せ始めており、1864年にクチャで起こった反乱は瞬く間に新疆全土に拡大するが、ハン国はカシュガルで樹立された在地のムスリムによる自立政権の要請に応じ、カシュガル・ホージャの子孫とハン国の軍を派遣した。カシュガルに入ったコーカンドの軍隊の中からは軍人ヤークーブ・ベクが混乱に乗じて新疆のほとんど全域を支配する大勢力に成長していたが、コーカンドからはほとんど独立してしまい、かえって混乱のためにコーカンドの繁栄を支えた新疆貿易の利益を滞らせた。

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